「アーユーオーライト?」
 「ゴッ」のあと、腕立て伏せで崩れたかのような状態で「・・・・・・」となっていた私に、「・・」くらいのタイミングで声がかかった。「・・・・」をやり過ごしてから、上半身を起こしながら、フルフルと首を横にふった。激痛という話では全くなかったが、歯がかみ合ってない。「何かやった」ことは確実だった。


 起き上がって歩道に戻ってしゃがみこむと、ランニングウェア姿の若い男性が見下ろしてくれていた。
 「救急車呼びますか?」
 乗ったら何百ドルというアメリカだったら即答できないが、イギリスは救急車は無料だ(1)。とりあえず呼んでおいてもらって損はなかろうとコクコクとうなずいた。
 うなずきながら、口から歯のかけらを吐き出した。
 私は生まれつき反対咬合、いわゆる受け口だった。子どもの時の10年近くと30代になってからの2回、矯正治療で顎の成長を抑制し下の歯をなんとかひっこめようとした。親と自分の努力をすべて無駄にして、顎と歯をぐちゃぐちゃにしてしまったかも……。痛いよりもその事実が恐ろしかった。
 もう一人、仕事に行きそうなファッションの若い女性も立ち止まってくれた。


 男性は、意識は遠のいていないか、気持ち悪くないか、痛いかなどと質問してくれた。あとから考えれば、救急対応の心得がある人だったのか、ずいぶん的を射た質問だった。
 意識は遠のいていないし吐き気もないが、気持ちはよくない、正直痛いのか痛くないのかわからないと答えながら、自分の時間を割いてくれていることが申し訳なく、「サンキュー、サンキュー」と繰り返していたら、「ネバーセイサンキュー」と何度も言われた。

 「血が出ている」と彼が言うので初めて、顎からぽたぽたと血が滴っていることに気づいた。女性がティッシュをくれた。男性は、道の向いに走り、テイクアウトのケバブレストランでペーパーを大量にとってきてくれた。
 私は、顎が何かおかしいと思っていたし、何より歯をダメにしたかもしれないことのショックが一番大きかったが、はた目には滴る血が痛々しかったようだ。
 しゃがみこんで覗き込んでくれていたこのお二人には、感謝してもしきれない。後でお礼が言えず、残念だった。

 気がつけば、女性が呼んだのか警察官が来ていた。彼が救急に電話してくれたようだ。彼が告げたのは、驚くべき事実だった。
 「救急車は最低でも1時間かかる見込みだって。」(2)
 そんなやりとりをしている間に、次の長距離バスが通り過ぎて行った…。おとなしくあれを待っていれば…。



(1)

 イギリスの公的医療(NHS)は原則無料ですが、救急車もそのスキームのうちなので無料です。アメリカやドイツで救急車を呼んだ場合、5万円程度は必要だそうです(トリップアドバイザー「世界の救急医療事情」(2012年1月19日)、2016年5月20日閲覧)。もっとも、多くの旅行者や期限付き滞在者は海外旅行保険に入っているので、カバーされると思われます。
 ちなみに日本は、救急車は無料ですが、運び込まれた救急病院で軽傷と判断された場合、「特定医療費」を数千円請求される可能性があります。また、軽傷患者からは費用を徴収すべきという議論が繰り返されているようです。



(2)

 ――ロンドンのど真ん中で、1時間…。それは「救急」なのか?
 この当然の疑問を探るべく、ロンドン救急車サービスLondon ambulance serviceのホームページを見てみました。それによると、「999」(緊急コール、救急車も警察も同じ)へのコールは、命の危険がある患者「カテゴリーA」と、それ以外の「カテゴリーC」の2つに分けられるそうです。通報のときに私の状況は説明されたと思われるので、カテゴリーCという判断になったのでしょう。
 政府の達成目標(ターゲット)は、カテゴリーAの75%で8分以内、95%で19分以内に救急車が到着するというもののようです(Meeting our targets (London Ambulance Service)、2016年5月20日閲覧)。しかも、2015年3月から8月の記録を見る限り、現実は目標値を下回っていて、8分以内に救急車が来ているのはおおよそ65%程度。私が転んだケンジントン&チェルシー区は70%。カテゴリーCの到着時間は公表されていません。


図 通報から救急車到着までの時間目標達成率(カテゴリーA事案で8分以内、2015年)
救急車到着時間
(出典)Latest Response Times (London Ambulance Service)より抜粋(2016年5月20日閲覧)


 ちなみに、東京消防庁では、平成26年で到着状況の平均値が「7分54秒」と報告されています(東京消防庁報道発表資料(平成27年1月22日)、2016年5月20日閲覧)。そのうち軽傷と判断された率が51.9%。報告書は、軽傷と判断される率が年々減っているにもかかわらず、到着時間までが延伸傾向にあることを嘆いていますが、軽傷例を半分も含めて平均8分ということは、ロンドンより東京のほうが救命される可能性は高そうです。命にかかわらない転び方でよかったです…。


[2016年7月29日追記]
上記の図の最新版を見ましたが、なぜかケンジントン&チェルシー区のデータがありませんでした。

f1-2-2救急車到着時間追記