女性医師は診療室に私を連れて行き、矯正のブラケットを接着してくれることなった。ところが、なんと診療台の上のライトがつかない。
 私は日本で何度も病院や歯医者に通ったが、必要な場所の電気がつかないなどという事態に出くわしたことはない。そのこと自体が、日々、診療を始める前にチェックして、適切に交換している結果だったのだと、思い知らされた。
 医師は、懐中電灯でやるわといって、通りかかった男性医師を呼び止めた。
 
 右左上下の奥歯に2つずつブラケットをつけるということで、懐中電灯下というどこの野戦病院かという状況で(もちろん部屋全体の電気はついていたが)、女性医師がブラケットをいくつかつけた。しかし、そこで医師らは恐ろしい会話を始めた。
 「あなた、これやったことある?」
 「いや、まだ。」
 「じゃあ、この接着剤でこうやって…はい、やってみて。」
 ――やってみて、だ、と?
 医師というのは鶏肉で縫合の練習をし、美容師は人形でカットの練習をする。ただし、陰で。日本の漫画的にはそういうものではなかったか。
 こんなにも堂々と、患者が初めてやる人の実験台であることがあからさまにされてよいものか。その事実も、そのことを悪びれないことも、文化の問題としてまったく理解できない。
 女性医師もうまくないと思ったが、男性医師の手つきはもっと怪しかった。
 歯を磨きもせずに器具を貼り付け(その可能性はあると思っていたので自分で表面をよく磨いてあったが)、接着剤はたっぷりブラケットからはみ出させながら貼り付けた。日本で何度も矯正治療を受けたが、色々とありえない。だが同時に、それまでの8か月の滞在で、イギリスならばこういうこともありえると思える範囲ではあった(1)。


 最後に女性医師が輪ゴムをはめた。すると、へんな位置で自分の歯が固定された気がした。帰宅後調べたら上下の歯は通常前後に半分ずつずれているはずで、私の場合は下が平均よりさらに前に出ていたはずなのに、機械的に対応する上下の歯をくくりつけたのだから当たり前だ。
 ――これでくっついたら元とずいぶん違うかみ合わせになるが大丈夫なのか?
 聞いてみたが、「今は、細かい場所ではなくて、とにかく安定させることが重要」との回答で、言いくるめられた。不安すぎたが、ここでもあまり深く考えられなかった。

f6-6-1昔の歯医者のいす

(関係ないですが、昔の歯医者のイス。歯医者博物館より。)


(1)

 NHSの問題として言われることはいくつもあります。予算投下や制度改革で解決する問題もありますが、病院に限らない文化的な問題も多いと思うのです。電話回線をセットする予約が3週間待ち、急に来られなくなったときの連絡が適当、カメラの在庫を見に行った店員が帰ってこない…などということを一通り経験した後だったので、このときも、「ああ電気つかなくても仕方ないなあで終わるんだなあ」「ああやっぱりきちんと歯も磨かずにつけるだんだなあ」と心底納得した自分がいました。もちろん、この時点では受け入れる以外の選択肢はありませんでした。