プロフェッサーが去ると、残されたジュニアドクターが、来週の予約のための書類を書いてくれた。その途中で、「ジャパニーズ?」と突然聞かれた。
 なんと、私は保険で通訳を派遣してもらったが、NHS負担で通訳がつけられるとのことだった(1)。さすが、イーストロンドン(2)(3)。

 次の月曜の日付と、「Interpreter: Japanese」と書かれた紙を渡され、受付に出すように言われた。受付の女性に渡すと、コンピューターで検索して「午後4時半しかないけど、それでいい?」と聞いて来た。それ以外に選択肢はないので、いいとした。通訳については、確約はできないから、とれなかったら連絡するとのことだった。
 すべてのやりとりが終わると、次の通院の予約情報が書かれた紙を渡された。診察券のようなものはなかった。会計もなかった。日本の通院で当たり前の儀式である診察券の受け渡しと会計がないと、ひどく不安だった。どうやってコミュニケーションを終わらせていいかのタイミングがわからなかった。


(1)

 立て替えたわけではないので額は把握していませんが、保険会社からの連絡の端々から察するに、入院3日間の通訳代金だけできっととんでもないことになりました。でも、通訳さんは本当にありがたかったし、NHSと違って大枚はたいて入ってきた(そして、今までの海外旅行では、幸いなことに「払い損」だった)日本の民間保険なので、それでいいかなと思いました。


 ただ、そのような大金がかかる通訳を、税金でまかなわれているNHSの負担でつけるというのは、すごいことだと思いました。「NHSが支払う通訳・翻訳料、年間2300万ポンド!」(onlineジャーニー、2012年2月15日記事、2016年7月30日閲覧)だそうです。その負担を誰が担うのかは、当然政治的な問題です。
 後から考えれば、このときは、私がどの程度英語が理解できる患者か調べず通訳欄が記入されました。その後は、逆に、こちらから言わないと忘れているときもありました。必要な人につかないことと必要ない人にも通訳をつけることというのが、基準もあいまいなまま行き当たりばったりで行われているという印象を受けました。「移民に学校や病院が取られている」というのは、EU離脱の住民投票に至るまで大きな論点になっていることです。本当に不可欠な支出なのか、何らかの基準は必要ではないでしょうか。


 ちなみに、この公費通訳で2回日本人の方に来ていただきましたが、思うところがあって頼むのをやめ、その後はまた民間保険で頼むことにしました。少なくとも、住民税以外を納めていない私が、政治問題となっているNHSの財源を無駄遣いするのは嫌だと思いました。
 それに加えて、対価をきちんと払う形で質保証がなされるということを、私はどこか無意識に期待しているのだと気づかされました。諸々察していただきたいですが、少し前にマンデラ氏の追悼式典で、各国要人のスピーチの手話通訳がでたらめだったという事件がありましたが、通訳なるものの質保証は、最後は双方の言語を理解した人同士で確認するしかありません。税金を投入して行う際に、多様な言語でこの点の質保証がどこまでできているのかという問題も、考えさせられました。

(2)

 そのときは、駆け込んだ私立病院と同様、移民の多い地区の大病院のロイヤル・ロンドン・ホスピタルだけのサービスなのかと思ったのですが、NHSのサービスでした。2-7)で言及したNHSの冊子でも、「病院を通して通訳を依頼できる」と書いてあります。

 後に、インターネット等で確認したところによると、病院によって確約はできないものの、電話通訳などもいるということでした。移民で本当に英語ができない場合、知り合いだけでは解決しないことがあります。林大地「医療通訳は税金の無駄遣い?」(Kurofunet 2012年12月13日記事、2016年7月30日閲覧)には、ソマリア移民の男性の治療にあたり、息子さんの片言の英語ではうまく伝わらなかったこと、電話通訳をつけたら息子の前では語れなかった病歴を患者が話したことといったエピソードが書かれています。また、日本の事例では、小学生のお嬢さんにペルー人のお母さんの通訳を頼んでいたら、かわいそうでうそを伝えていたという話を読みました(松野勝民2016「外国人医療問題から見える生活課題」明治学院大学教養教育センター・社会学部『もうひとつのグローバリゼーション:「内なる国際化」に対応した人材の育成』、pp.65-66)。

 NHS改革の既存研究などには、こういった点はあまり載っていません。日本の医療制度を見る合わせ鏡として他国を見るという主たる目的からは外れるからかもしれません。ただ、日本も今後多様な住民を抱えるという点では、もっと紹介されていいのではないでしょうか。


(3)

 もちろんロイヤル・ロンドン・ホスピタル自体も、外国語話者の対応に熱心です。Advice in your language(2016年7月30日閲覧)というページでは、ベンガル語、英国手話、ヒンドゥー語、北京語、ポーランド語、ポルトガル語、ルーマニア語、ロシア語、ソマリア語、タミール語、トルコ語のビデオが提供されています。その中で、日本語というのはほとんど重視されていないことがわかります。
 3-1)3-2)で見たように、ロイヤル・ロンドン・ホスピタルの近隣は、移民地区です。ホワイトチャペル駅前には、アイディア・ストアという、世界的に有名な、多文化低所得層にターゲットを絞った生涯学習センター兼図書館があります。中には、ヒンドゥー語、ウルドゥー語、ベンガル語のインド系言語や、ソマリア語、北京語のコーナーがあります。読める本があるから来てもらうのが第一歩。また、子ども向けのイベントをやって、親に来てもらうなどの工夫もしているそうです。隣のベスナルグリーンには、V&A子ども博物館があるのですが、そこにもベンガル語とソマリア語の表示があります。来ていいよ!というメッセージを出しているそうです。


F6-8-1多言語対応
(V&A子ども博物館の表示)